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「マンガ研究」って、最近よく聞きますが、それと同時に「マンガの研究ってなにやるの?」という声も同時によく聞かれます。確かにマンガ研究は、新しい学問ジャンルで、まだまだ未発達であり、これからの発展が期待されています。このページでは、私たち漫文が行っている「マンガ研究」の例をご紹介します。もちろん、我々がやっていることだけが全てではありません。私たち漫文のスタンスとしてご紹介します。
ここで、興味を持った方、一緒に「マンガ研究」をしてみましょう!w
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「漫画」という言葉は、その昔中国においては鳥(ヘラサギ)の名前だったといわれます。無論、これが直接、今私たちが使っている「漫画」の語源になったかは、議論があります。日本において、最も早く「漫画」の言葉が登場するのは、江戸時代に発表された「四時交加(しいしこうか)」においてです。この作品の序文において初めて登場しました。
「四時交加」のころは、まだ「漫画」という言葉は、「スケッチ」程度の意味しかなかったのではないかと考えられます。右にあげたのが、「四時交加」の図です。これは、十二ヶ月の路上を行き交う人々の姿を描き出したものです。また、タイトルに漫画の文字が入るのはかの有名な「北斎漫画」からです。この頃から、次第に「笑い」を付加するようになった気配が感じられますが、明確ではありません。そして、明治時代に入り、風刺文学と江戸伝来の漫画が合流し、今でいう「一コマ漫画」が成立し、それが徐々にストーリーマンガをはじめとする多ジャンルにわたる「マンガ」へと発展していったと考えられます。
いまだになぞの多い「マンガ史」。どういういきさつで、現代のように発展したジャンルに成長したのか。作品一つ一つを読みこみ、その歴史を堪能しませんか。
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世間では、「泣ける」という作品が評価される傾向があるようです。これは、マンガだけに限らずアニメ・映画・小説でもよく言われています。こういった作品群には、結果としての「泣けた」ということにだけ注目した評論や感想があまりに多く、ではその作品自体の「読み」はどこに言ってしまったのかが、全くわからない。それは果たして、その作品のよさを最後の最後まで味わった事になるのでしょうか?
肝心なのは「泣けた」のはなぜか?ということです。初めてその作品を読んだ後の感想を「初読の感想」と言ったりしますが、それは「おもしろかった」「泣けた」「心が温まった」というものだと思います。でも、その感想に「なぜ、そういう感想になったのか?」と自分で疑問を投げかけたとき、それは「作品論」への第一歩になります。「泣けた」を例にとれば、読者を泣かせることができる物語・その構造、人物造詣(キャラの設定)、表現の仕方…その理由を探ることは、作品だけではわからないかもしれません。作者のほかの作品では、どういったメッセージがあり、それがこの作品に反映されているかもしれない。または作者の生い立ちによる精神性の反映、いやいや社会全体の空気が作品にも影響しているのかも…。最初に思った「泣けた」という感想を大事にしながら、もう一度読み返し、その理由を探っていけば、自分自身が自信をもって他者へ示すことのできる「読み」を獲得できます。
よりよい「読み」を一緒に探していきませんか?
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作品を「シュール」と評価することもありますが、「シュール」ってなんでしょうか?それを聞いてぱっと、その作品がどんな作品かイメージできますか?だいたい「シュール」の言葉の意味を説明することができるでしょうか。確かに、理解しがたい作品などに安易に「シュール」という言葉を当てはめてしまいますが、それではその作品がどういったものなのか、全くわからずに終わってしまいます。なぜなら「シュール」という言葉を使っている自分たちが、その言葉の意味を理解せずに使っているわけですから、明確にイメージできていないわけです。それは、作品の「読み」を放棄してしまうことにもなります。
こういったときは、その作品を基準に「シュール」とは何かを考えてみればどうでしょうか?その作品のどういったところが、「シュール」と感じるのか、それをまとめていけば、その作品における「シュール」とは、が明らかになります。どういう「シュール」さが作品に存在しており、作品の魅力になっているのかを解明してみればどうでしょうか。
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マンガを読んでいると、それまで淡々と進んでいたのに、ページをめくった瞬間見開き2ページに大きな絵がきたり、突然話が変わってしまったりすることがあります(ギャグマンガなら、オチがくるなど)。これは「めくりの技法」と呼ばれる、マンガ文法の1つです。マンガは基本的には本ですから、必ずページを「めくる」という行為が行われます。このめくる時に一度、それまでの読みがリセットされ、新しく目線がページに入るわけですから、インパクトも大きくなります。
マンガ家たちは、古来からこういった「めくりの技法」を含めて、マンガをおもしろくするためにいろいろな表現方法を考え出してきました。読者の目線の動きを流れるようにするためにはどうすればいいのか、どうすれば絵で「心の闇」をわかりやすく表現できるのか、白黒で炎を「赤く」見せるにはどうすればいいのか…こういった壁を打ち破り、今日、いろいろな表現がマンガには施され、読者は楽しく読むことができます。
そういった表現が、どのように発展したのか、またどういった表現方法が使われているのか、その作家独特の表現方法とはなにか、といったことを分析するのが「表現論」です。
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よく子供の頃に言われたセリフ「マンガを読むと頭が悪くなる」という言葉は、歴史的には、国によって作られた言葉だといえます。戦前から戦時中にかけては、多くの子供向けの分野で「徳育」ということが叫ばれました。つまり、子供に与えられるものが、すなわち「教育的に良いものであるべき」とされたのです。「教育」というものは、基本的には国にとって都合の良いことを子供に押し付けるものだった時代において、マンガは科学的な豆知識や教訓的な要素を取り入れることを強いられました。戦前マンガはすでに「マンガ=笑い」という構図が完成しており、実利(利益につながらない。ただの娯楽はいらない)主義だった戦前においては、教育的要素が備えられていても、次第に国単位で不要なものと見られるようになりました。そういった風潮が、もはや固定概念として日本人の精神に定着してしまい、「頭が悪くなる」という言説が生まれてきます。
しかし、マンガを読んだだけでどうして頭が悪くなるのか?例えば、「マンガをしていたから殺人を犯すんだ」という、極端な言説がありますが、あれはある意味で「マンガ」に、人に対して殺人という凶行を起こさせる「力」があることを認めた発言です。では、「マンガ」を読んで善行をするものが出てもおかしくないはずです。一概にはマンガ=悪・不要とはいえません。
こういったマンガに付随するイメージはどのようにして出来上がったのか、それを明らかにすることは、マンガへの正当な評価をもたらす重要な研究といえます。
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